わたしは無職からあがってしばらくは、教養ある人が少ない会社にしか入れませんでした。
教養の上限がせいぜいスポーツ新聞までで、基本的に金・異性・車の話ばかりでした。
それらが仕事よりも優先的な話題で、
『ここにいても、将来性はない』
と感じました。
そして転職をして徐々に教養のある人が多い会社に移っていきましたが、そこで困った問題にぶつかりました。
やたらとカタカナ語を使って、何を言ってるのかよくわからない人が出てきました。
よく喋るし明るく見えるのですが、話しかけられた人たちは閉口に近い微妙な表情を浮かべます。
彼らがあまり好かれないのはカタカナ語のせいではなく、共感性の低さにあります。
ただここでは彼らを理解し、嫌悪感の先にある才能についても考えていきたいと思います。
苦手なタイプを取り込み、自分の糧にする方法です。
カタカナ語を使う人の問題点
わたしたちがカタカナ語を使う人に抱く感情は、決していいものではありません。
かといって犯罪の加害者を見るような嫌悪感でもありません。
カタカナ語使いとの遭遇は、非常識な人と相対した時の感覚に近いのではないでしょうか?
カタカナ語を使う人の、
『相手が理解してようが・しまいが構わない』
という態度に傲慢さを感じるのです。
つまりカタカナ語そのものというより、言う人の共感力の無さが嫌われる要因です。
偉そうに聞こえるから嫌われる
偉いならまだしも、カタカナ語を多用する人は偉そうだから余計に悪く映ります。
例えばサステナブルという、『持続可能(な環境)』のニュアンスの言葉があります。
これを使っているのが、評論家っぽい人ばかりです。
そんなに熱心なら環境会社に入って額に汗して働けばいいのに、上から目線で説教しかしません。
彼らの『自分はやらないけど、お前らシッカリしろ』というポーズが嫌われる理由です。
会社でもマネタイズ(収益化)という言葉を使う人ほど、収益を生み出す構造を作り出せないものです。
評論家ばかり増えても、物事は先に進みません。
どんどんスケールがでっかくなっていく
カタカナ語を多用する人は、給料の話題から資本主義について語り出したり、SNSで地球環境を一手に背負いだしたりします。
彼らは油断するとすぐに大人物みたいになってしまいます。
その時の彼らの自己陶酔感もまた、我々を困惑させます。
恐らく等身大の自分とのギャップを埋めるカタカナ語を発して、脳の中で興奮物質がドバドバ出ているのでしょう。
ネイティブ、あふれちゃいました感
英語圏の人がやる仕草で、ダブルピースをニギニギするものがあります。
皮肉を込めた発言や、有名な言葉を引用した時に使うポーズです。
日本人同士の討論番組でこれをやった人がいて、わたしは
【ネイティブ、あふれちゃいました感】
に打ちのめされました。
カタカナ語を使う人は、なぜうさん臭いのか?
カタカナ語のうさん臭さは、ペテン師の影響が強いです。
現代のペテン師であるマルチ商法とかは、アフィリエイトだとかオプトインメールとか、一般人になじみが薄いカタカナ語を使っていました。
何だかよくわからない言葉を使うと、聞く人の注意はその言葉に向いて、全体の矛盾に気がつきにくくなります。
このようにペテンをする時の道具として、カタカナ語は便利なのです。
日本語だと大したことを言っていない
最近、意味を追って脱力した言葉があります。
環境に対する話題で
『環境はnice to haveではなく、mustな意志決定』
と発信されていました。
わたしはこれを見て、『ついに一線超えたな』と思いました。
今までエビデンスとか、カタカナ表記で彼らも最後の一線は超えていなかったので、こちらも事を荒立てないでいました。
しかしついに英語表記を使う人が出てくると、こちらもかばいきれません。
翻訳して書き手がふわっとさせておきたい部分も、明確にさせる事にしました。
nice to have = あればいいな
must = しなくてはならない
直訳すると、
『環境はあればいいなではなく、しなくてはならない意思決定』
訳してもなんだかよくわかりません。
言いたかったのは、
『環境問題は解決できたらいいではなく、解決しなくてはいけない問題』
ではないでしょうか。
訳してみると何だか「勉強はしないよりも、した方がいい」みたいに、間が抜けた発言です。
結局、商売
サステナブル(地球環境の持続可能な発展)・ファッションと称して、新しい服が販売されていました。
本当のサステナブルは、靴下の穴にあて布を縫い付けるような事ではないでしょうか?
結局は言葉自体が使い捨てにされているだけなので、おぼえても無駄な気がします。
わたしはダイバーシティというカタカナ語を、『未だにスカスカなお台場の土地を売るためのキャッチコピー』という認識です。
ダイバーシティより前のカタカナ語に至っては、廃れているから記憶にありません。
カタカナ語を使う人を、『うざい』と切り捨てない
カタカナ語を使う人たちは鼻につくだけで、ペテン師を除いてそんなに悪い事はしていません。
だから彼らをうざいと切り捨てるのではなく、我々はいかにして有効活用するのかを考えるべきです。
彼らが自分に酔うための聴衆としてわたしたちを使うなら、こちらも彼らを糧とします。
まず気持ち的に彼らを嫌う気持ちを克服するため、彼らの事を
『カタ・カナヲ』
などのアダ名で記号化してしまいましょう。
利用すべき彼らの能力
彼らの才能は、いち早く海外の流行に飛びつく好奇心にあります。
われわれが目の前の仕事に目を奪われる中、彼らは目の前の仕事を疎かにしてでも海外の情報に飛びつきます。
そして見つけたものを我々に、これ見よがしに発表してくれます。
我々は拒否感を示すのではなく、彼らが拾ってきた情報の中から使えるものを取捨選択して糧とするのが賢い付き合い方ではないでしょうか。
例えば海外でブログサービスやSNSが流行して、それをいち早く日本で真似た会社は利益を上げる事ができました。
そういうものを見つけてくれるのが、カタ・カナヲの能力です。
本人は皆を導くリーダーのように思っているかもしれないですが、そうではなく鼻の利くトリュフ犬のような役割を与えます。
苦手なタイプを減らす
わたしは嫌いな人がいたら会社を辞めていましたが、『苦手』くらいの場合は捉え方を変えて、苦手と感じないようにしてはいかがでしょうか。
わたしはカタカナを多用する人に、『その言葉の意味がサッパリわからないんですが』と真正面から言った事があります。
すると相手は、嬉しそうに意味を教えてくれました。
ちょっとセンサーは違うけど、彼らはそんなに悪人ではないと思います。
本当に嫌な人は、もっと病的に人を傷つけます。
カタカナ語を擁護する
カタカナ語には意味が明確でない分、角が立ちにくいという利点もあります。
例えばパーソナリティ障害に関する本を読んでいたら、カタカナにしている理由が出てきました。
日本語の人格障害だと全否定しているようだから、パーソナリティ障害というフワッとした表現にしているのだそうです。
「カタカナ語を使う人には、反吐が出る」
だと、とりつくしまがないように聞こえませんか?
「その言い方は嫌いだなぁ」
でも、まだ攻撃力が強い言葉です。
「その言い方はdislike(嫌いとか好きになれないの意)だなぁ」
だと、ワンクッション入っているように感じませんか?
だからカタカナ語を多用する人の事を、ちょっとワンクッション入れ過ぎてしまっているだけの人だと思ってみてはいかがでしょうか?